三田 泰久
Sanda Yasuhisa
私は、高校卒業までは三重で暮らしていました。大学で京都に、就職で東京に引越しましたが、いつかは三重に戻ろうと思っていました。そして、28歳でUターン就職して三重に戻りました。私は父が地方銀行勤めだったので、父のネットワークでUターン就職先を探してもらいました。それでも苦労しましたし、父に助けてもらっていなかったらどうしていただろうと思います。
Uターン転職は、例えば親の介護などUターンせざるを得なくなってから慌てて探したり、あるいは転職先も決まらない間にUターンし、その後に探したりするのは、理想的ではありません。仕事をしながらUターン転職先をじっくり探し、そして満足できる転職先が決まってから満を持してUターンするのが理想的だと考えます。私の場合、年末からUターン転職先を探し始めて翌年のGW明けにUターン転職しましたので約半年を要したことになりますが、その期間はどちらかと言えば短い方だと思います。
岐阜から離れて岐阜へのUターン転職先を探すのは決して容易ではありません。面接のために戻るのも一苦労、またその会社の評判を聞いたり、実際に働いている人から話を聞こうと思ってもそれも簡単にはできない。このような距離が生み出す障害を出来る限り小さくするのが私たちの仕事です。
大好きなふるさと岐阜で親や親戚、旧友たちと共に暮らし、そして地元で働く、そんな生活の実現をUターン転職の先輩として応援します。
1987年3月 | 三重県立伊勢高等学校 卒業 |
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1991年3月 | 京都大学 工学部 電子工学科 卒業 |
1991年4月 | 株式会社リクルートコスモス(現 株式会社コスモスイニシア)入社。バブル崩壊直後の不動産業界で法人向けの事業用不動産の企画営業を担当し、「売れない時代にどう売るか」を身を持って実践。 以降、6年間に新人賞、四半期MVP(最優秀賞)、通期NVP(優秀賞)など受賞。 |
1997年4月 | 三重へのUターン転職が決まったため、株式会社リクルートコスモスを退社。 |
1997年5月 | 三重の地元企業にUターン転職。起業志向だったが、地元三重では仕事をしたことも人脈もなかったので就職。株式公開準備、外資へのM&A、マーケティングなどに従事。 |
2005年12月 | 起業に向けて機が熟したと考え、8年間勤めた地元企業を退社。 |
2006年1月 | 経営コンサルティング・教育研修を中核事業とする株式会社アーリー・バード・エージェントを設立し、代表取締役に就任。その後、着地型旅行代理店、特産品販売所、行政書士法人、Webデザインなどに業務拡大。 |
2011年4月 | 株式会社アーリー・バード・エージェントの新規事業として、「みえU・Iターン特化型人材紹介業」を三重大学キャンパスインキュベータ内において、三重大学、三重TLO、県内商工団体、同窓会組織などと連携してスタート。 |
2012年4月 | 前年に開始した人材紹介業を株式会社アーリー・バード・エージェントとして分社化、同社取締役に就任。 「リージョナルキャリア三重」のサービスをスタート。 |
2018年2月 | 「リージョナルキャリア岐阜」のサービスをスタート。 |